『声に出して読みたい日本語』(草思社)で一世を風靡した斉藤孝氏ならではの主張が詰まった本である。著者が言いたい事はタイトルでほぼ言い表されているが、こういう「伝わればいいんでしょ」という発想こそ、斉藤氏が忌み嫌うところである。本書の醍醐味は、その主張のシンプルさではなく、紹介されている事例やメソッドの豊富さにあると言えよう。推奨されている本は、シェイクスピア、論語、三国志など教養を重視する人らしいが、テレビやネットでも言葉を磨くことが可能だというのは、いかにもテレビで活躍されている人である。
そんな中、「なるほど!」と膝を打ったのが、アマゾンのレビューは言葉の宝庫だから読むべしというご意見だ。あまり売れていない本だとレビュー数も少なく、主観的に過ぎる絶賛か口汚く罵るレビューしかなかったりもするが、レビュー数が10を超えてくると秀逸な文章に出くわす確率が高くなる。既読で内容を知っている本のレビューを読むという手法は、実は私も使っている(但し、私の場合は斉藤氏と違って語彙力を増やすためではなく、物の見方を多角的にする訓練としてだが)。
さらに斉藤氏は語彙を豊富にする事の実用的価値も紹介している。
「うぜーな。メシ行こうぜ。マジっすか」程度の言葉しか飛び交わない工員たちの語彙の貧弱さに驚いた企業経営者が、企業内で国語教育を始めたところ、俄然工事の効率が良くなったというのだ。どんな現場でもメンバー間のコミュニケーションは必要だから、この効果は頷ける。
しかしながらである。
やはり、語彙力は教養の極一部ではないだろうか。どれほど語彙が豊富で、アウトプットが文法的に間違いでないにしても、状況により「うぜーな」「メシ行こうぜ」「マジっすか」が正解の場合はある。問題は、その程度の言葉しか使いこなせない人は、状況に応じた言葉の選択ができないところだ。語彙が豊富であればあるほど、対応できる状況は増える。そして、対応できる状況が増えれば、生活は、人生は豊かになる。
という事で、私の結論は「結局、コミュニケーション力こそが教養の中核じゃないですか」というありきたりな場所に落ち着いてしまうのだ。
でも、読むと面白いよ。
表題には異議あり。EUはキリスト教に原点回帰している。 『イスラム化するヨーロッパ』新潮新書 三井美奈
国内問題とアメリカ大統領選挙の報道で、ここ2、3か月、日本人の関心はヨーロッパから遠ざかっているようだが、ヨーロッパに安定が来る日は遠そうだ。ユーロに加盟している弱小国はギリシアに限らず、どの国が財政破綻してもおかしくない。経済がおかしくなると人々の本音がむき出しになる。これまで多様性への寛容さを売りにし、日本の自称リベラル派たちから見習うべき国の代名詞だった北欧諸国にも、イスラム排除の空気が漂い始めている。それを紹介してくれるのが本書である。
ヨーロッパが移民を受け入れた歴史は古く、今ではイスラム教徒の二世三世が誕生しはじめている。彼らの多くは日本の在日コリアンと異なりヨーロッパの国々の国籍を取得しているが、それでも「ヨーロッパ人」になるのは困難だ。そして母国に違和感を持つ彼らが、インターネットを通じてイスラム国やアルカイダなどの過激派にシンパシーを感じていく有様を筆者は綿密な取材で描いている。
テレビ報道を見ていると、あたかもイスラム国なるものが存在し、彼らがテロ活動を起こしているかの錯覚に陥るが、フランスでテロを起こす者の多くは紛れもないフランス人であり、イギリスやドイツもまた同じである。彼らは、第2章の章題にもあるように「ホームグロウン・テロリスト」と呼ばれている。ホームグロウン・テロリストを生み出す土壌については、本書が紹介するイギリスのキャメロン首相の言葉、
「悲しいことだが、我々は認めなければならない。この国に生まれ育ちながら、英国人として生きられない人がいる」
がすべてを表している。
しかし、政治は世論を受けて動く。悲しんでばかりいられないのだ。デンマークでは新移民に対する社会保障費は半分に削減された。スウェーデンでも移民排斥を主張する政党が議席を伸ばし、ノルウェーでも移民制限を主張する政党が第二党になった。今や反イスラム政党抜きに欧州政治は語れないと筆者は言う。その主張には完全に同意する。
ただ、2点ばかり違和感がある。
1点目は本書のタイトルだ。ヨーロッパはイスラム化しているのではない。イスラム移民の増加により偽善の仮面が剥がれ、本来の姿であるキリスト教化しているのだ。
2点目は、先進諸国の第2党や第3党に伸長している政党に対し、「極右政党」と呼ぶのはいかがなものだろう。
この2点の違和感を除いても、本書が読むに値することは言うまでもない。
学校の今を知るための本 『スクールカーストの正体』(小学館)
紙媒体で「スクールカースト」という概念を初めて取り上げたのは、拙著『いじめの構造』(2007新潮社)である。それまでネットスラングに過ぎなかったこの言葉を取り上げるにはそれなりの軋轢があったが、ついに現役の中学教員がこういう本を書く時代が来たと思うと感慨深いものがある。
さらに嬉しいのは、著者の堀氏がスクールカーストの決定要因「自己主張力」「同調力」「共感力」を拙著のまま踏襲し、どの力を持つかによってクラス内の大まかな役割(キャラ)分担が決まる点まで採用してくれた事である。現役教師に大きな影響力を有する彼にとって、この分類は腑に落ちるものだったのだろう。
さて、本書ではスクールカーストの存在を前提として、現場の教師は日々の課題にどう立ち向かうべきかを具体的に記している。スクールカーストを意識する必要が一番あるのは「いじめ問題」への対応だが、それ以外でも合唱コンクールの指揮者に選ばれた女子が不登校気味になる事例など、現場を知りぬく教師にしかかけない視点が随所にちりばめられている。そして、教師の側にもカーストがあるという暴露話も記されている(これは私の実感とも概ね合致している)。
堀氏は、北海道をはじめ全国で勉強会を行っており、そこでは拙著を出した直後からスクールカーストという概念を教員に紹介し、それを前提とした指導の大切さを力説しており、本書は満を持しての出版したものだ。学校現場の今を知りたい方は是非読んでほしい。
裏話になるが、実は堀氏が『スクールカーストの正体』を発刊するにあたり、小学館から献本を頂戴した。かなり詳細に拙著を引用してくれているので、自分のブログに紹介するのが礼儀と思ったのだが、実はその時すでに都庁を退職する意思が決まっており、新書を紹介していくブログの立ち上げも企画していた。そして、第1回は本書にすることを心に決めていたのだ。
改めて堀氏及び小学館に御礼申し上げるとともに、ここまで伸ばしてしまった(つまり、売上の初速に貢献できなかった)事をお詫びしたい。