習慣新書

新書を片っ端から紹介していくブログです。1年間に200~300冊程度紹介するのを目標にしています。

語彙は教養にとって大きな要素だ。しかし、要素に過ぎない。   『語彙力こそが教養である』(角川新書)斉藤孝

『声に出して読みたい日本語』(草思社)で一世を風靡した斉藤孝氏ならではの主張が詰まった本である。著者が言いたい事はタイトルでほぼ言い表されているが、こういう「伝わればいいんでしょ」という発想こそ、斉藤氏が忌み嫌うところである。本書の醍醐味は、その主張のシンプルさではなく、紹介されている事例やメソッドの豊富さにあると言えよう。推奨されている本は、シェイクスピア論語三国志など教養を重視する人らしいが、テレビやネットでも言葉を磨くことが可能だというのは、いかにもテレビで活躍されている人である。
そんな中、「なるほど!」と膝を打ったのが、アマゾンのレビューは言葉の宝庫だから読むべしというご意見だ。あまり売れていない本だとレビュー数も少なく、主観的に過ぎる絶賛か口汚く罵るレビューしかなかったりもするが、レビュー数が10を超えてくると秀逸な文章に出くわす確率が高くなる。既読で内容を知っている本のレビューを読むという手法は、実は私も使っている(但し、私の場合は斉藤氏と違って語彙力を増やすためではなく、物の見方を多角的にする訓練としてだが)。
さらに斉藤氏は語彙を豊富にする事の実用的価値も紹介している。
「うぜーな。メシ行こうぜ。マジっすか」程度の言葉しか飛び交わない工員たちの語彙の貧弱さに驚いた企業経営者が、企業内で国語教育を始めたところ、俄然工事の効率が良くなったというのだ。どんな現場でもメンバー間のコミュニケーションは必要だから、この効果は頷ける。
しかしながらである。
やはり、語彙力は教養の極一部ではないだろうか。どれほど語彙が豊富で、アウトプットが文法的に間違いでないにしても、状況により「うぜーな」「メシ行こうぜ」「マジっすか」が正解の場合はある。問題は、その程度の言葉しか使いこなせない人は、状況に応じた言葉の選択ができないところだ。語彙が豊富であればあるほど、対応できる状況は増える。そして、対応できる状況が増えれば、生活は、人生は豊かになる。
という事で、私の結論は「結局、コミュニケーション力こそが教養の中核じゃないですか」というありきたりな場所に落ち着いてしまうのだ。
でも、読むと面白いよ。