習慣新書

新書を片っ端から紹介していくブログです。1年間に200~300冊程度紹介するのを目標にしています。

左翼系学者の挑戦と限界   『「安倍一強」の謎』(朝日新書) 牧原 出

 民主党政権が終焉し、政治の世界では「安倍一強」時代が続いている。本書は左翼系の大学教授がその謎の解明に挑戦した著作である。
 第1章では、与党しか知らなかった自民党が、3年間の民主党政権を経験して「政権交代を知る」より逞しい政党に変化したと分析する。筆者が言うまでもなく、日本以外の国では政権交代は日常行われる事であり、自民党は与党、野党、与党という経験によりグローバルスタンダードにおける「普通の政党」になった。これが自民党の強みだ。しかも、安倍総理は第一次安倍内閣時代に参院選挙で手痛い敗北も経験しているので、世論の気まぐれさも熟知している。これに対して民進党(旧民主党)は、万年野党から3年間の与党しか経験していない。しかし、数年か10数年のうちに党を立て直し与党になる日が来る、という筆者にとっての希望的観測を述べる。
 第2章での内閣官房分析は鋭い。安倍内閣は菅氏を官房長官に起用したが、菅氏の最大の特徴は、政界に特定の親分を持たず、常に政局・政策の面から合理的かつ最適な行動を取れる点だ。しかも、安倍内閣は橋本内閣や小泉内閣のような統治機構の根本的な刷新には手をつけず、官邸機能の強化だけを目指した。それが菅氏を中心とした安倍内閣の強みである。しかし、このポストが勤まる人間は、今のところ菅氏しかいない。それが将来的に安倍内閣の弱みになる可能性がある。
 第3章では衆参で過半数議席を占めながら、かつての自民党のように野党に鷹揚な態度を見せる事無く、自身の政策実現を急く安倍総理への疑問が呈されている。
しかし、それを疑問に感じるのは筆者が左翼ゆえにすぎない。かつての自民党政権は、その多くが「政権与党にあり続ける事が目標」だったのに対し、安倍政権は「日本の現状や未来を見たときに必要な事(少なくとも安倍総理が必要と思っている事)を行う」ことを目標としている。その意味で自民党は、ようやく「普通の政党」になれたのであり、各議員が国会議員であり続けたいだけの烏合の集たる民主党は「普通以下の政党」でしかない。
私は、野党第1党がそういう政党であることこそが「安倍一強」の理由だと思うのだが、それが見えないのは左翼系学者の限界だろう。

家康が三河守(みかわのかみ)で信長が上総介(かずさのすけ)なのは何故? 『格差と序列の日本史』(新潮新書) 山本博文

山本氏は東京大学資料編纂所の教授である。おそらくは教育よりも圧倒的に研究を主体とする学者だと思われる。そして、如何にも学者らしく「格差」と「序列」を別物として考える。
 会社に社長、部長、課長、係長、主任、ヒラが存在するように、どんな組織にも序列は存在する。しかし、我々はそれを格差と感じずに生きてきた。それは、ほとんどの組織が努力や業績により昇進可能だからだ。もちろん、昇進がフェアとは限らないし、それに対する怒りを持つ人は多いだろうが、それは今の地位より高いポストに就けた証でもある。ところが近年、何年勤めても昇進の可能性のない「非常勤」というポストで一生を過ごす人が出てきた。山本氏はそれこそが「格差」であり、これは「序列」とは本質的に異なると主張する。
 この考え方を前提に日本史を古代からGHQ改革まで縦断し、古代がいかに格差に満ちていたか、家柄から実力の世になったとされる中世武士社会も家格による格差が厳然としてあった等々の事実を解き明かしていく。
 本書はテーマの性質上、次々と朝廷、鎌倉幕府、足利幕府、江戸幕府の役職名が出てくる。日本史で勉強した事を思い出して懐かしむ方もいると思うが、それでも読み通すには相当骨の折れる書物である。だが、例え読み通すのに挫折したとしても、歴史小説を読む際や、テレビの時代劇や大河ドラマを見る際に、一味違う見方を提供してくれるだろう。そういう意味では一家に一冊あって良い本だ。
 さて、表題の種明かしをしておこう。信長と家康の同盟は当初から最後まで信長優位の関係だった。ところが、格上の戦国大名である信長は上総介を名乗り、家康は三河守を名乗っていた。これは一見アンバランスに見える。しかし、日本の律令においては上総の国のトップ(かみ)は、親王がなると決まっていた。もちろん親王は名目上の守であって現地には赴かない。そこでこのような親王任国ではナンバーツーの介が事実上の長官だったのである。さすがの信長も一戦国大名時代に親王を名乗る訳にはいかなかったのだろう。本書を読めばいかに日本史において律令制が根深く影響を与えているかが理解できる。

創作は孤独とともにある。 『孤独の価値』(幻冬舎新書) 森 博嗣

『すべてがFになる』でデビューし、スカイ・クロラシリーズなどヒット作を出し続けた作家の「孤独」という問題を中心にした人生論。
 工学博士でもある著者は、まず人はなぜ孤独を恐れるのかを考える。そして、彼は、群れをなす動物である人間の本能として一人になることはすなわち「生存の危機」であり、それゆえ人が孤独を忌避する感情は自然であるという結論に行きつく。しかし、実際には文化・文明を持った人間が一人になったからと言って「生存の危機」に見舞われる訳ではない。それゆえ本能に従って、孤独をむやみに恐れるのは愚かだとさとく。
 そのうえで、どういう時に人が孤独を感じるのかについて、著者はいかにも理系らしくサインカーブのごとく人は「賑やかな状態」と「一人でいる状態」を繰り返し、「賑やかな状態」から「一人でいる状態」に向かう時に孤独を感じるという仮説を開陳する。そして、その振幅が激しいほど人はクリエイティブになれるのであり、孤独を恐れていては創造的な生活はできないとまで言い放つ。
 確かに、クリエイティブな活動には一人の時間が不可欠だ。映画のように最終的には大勢が協力して何かを作り上げるものであったとしても、その前の段階では原作者や脚本家が孤独な状態で作品作りをしているし、プロデューサーや監督も一人で構想を練る時間があるに違いない。
 筆者の考察はさらに深化し、孤独と向き合う美という境地を賑やかな美よりも一段高い状態ではないかと考える。すなわち「わび・さび」の世界だ。人は美を追求する際に、最初は賑やかなもの、晴れやかなものを追求するが、やがてそれに厭きて、別の境地を目指す。そのときに人間の感性を高い次元に引き上げてくれるのが孤独ではないかと言うのだ。
 クリエイティブな活動とともにあるとき、孤独は大いなる楽しみであり、それを知らない人、ただただ一人を恐れる人に人間的深みを感じられないと言われると、大きく頷かざるを得なかった。

我々が品格を取り戻すための処方箋 『日本人の品格』(ベスト新書) 渡部昇一

渡部昇一氏は私にとって北極星のような方だ。

思えば中学生か高校生だった頃、人生で初めて読んだ新書が氏の著した『知的生活の方法』だった。その後、大学時代に、左派的思想に影響されがちな私の目を覚まさせてくれたのも、氏の論壇誌における言論活動だった。
 そんな渡部氏の著作を論評するなどそれこそ恐れ多いのだが、やはりこれは紹介しておくべき本だと思う。

第1章から第3章は、日本は東アジア圏にあって中国とは独自の文明に属すること、天皇は伊勢神宮や靖国神社など限られた神社にしかお参りしないこと、日本軍の規律正しさが西洋諸国の驚きの対象だったこと、源氏物語が世界初の本格的な小説であること、江戸時代にはリサイクル文化が発達していたこと等々、保守系の方なら先刻ご承知の諸事実がコンパクトに説明されている。
渡辺氏はこのような本来誇り高くあるべき日本を貶めたのはGHQの政策により利得した者たちであり、その第1に当時ソ連の工作員だった共産主義者をあげ、中でも戦後教育の罪深さに憤っている。
ここまでは、他の保守派論客の著作でも代用できそうな内容であるが、本書の白眉は第5章の「日本人の品格を取り戻すための処方箋」にある。中でも私が特に感銘を受けたのは、次の2点だ。

1 江戸の商人から近代ビジネスマンに脱却できたのは、彼らに武士的プライドを与えた渋沢栄一にあり、それを今一度再認識することが大切だ(これは大人向けか)。
2 入試の古文は、出展を限定すること。そうすれば、受験生は暗記するほどまでに一生懸命勉強し、それが日本人の国語力をゆるぎないものにする。かつてはヨーロッパの大学入試にラテン語は必修であったが、実際に出題されるのはタキトゥスの『ゲルマニア』とシーザーの『ガリア戦記』に限られていた。それと同様である。

近年の日本企業の不祥事を見れば、企業人の「誇り」が失われているとしか言いようがなく、第1の点はまさに我が意を得たり、である。
一方、第2の点については思いもよらなかった。だが指摘されてみればまさしくその通りで、国民共通の古典を再び持てる喜びは、何物にも代えがたい国民財産になるはずだ。

格闘ゲームは人をかくもクレバーにするのか 『悩みどころ逃げどころ』(小学館新書) ちきりん&梅原大悟

 ちきりん氏は、ブログをやる人なら誰もが知るアルファブロガーである。そして、何度か彼女のブログを読んだ人ならば、彼女が外資系の金融会社に勤めていたエリートで、今はビジネスの世界をリタイアし、悠々自適のブロガー生活を送っている事もご存じだろう。
 一方、梅原大悟氏は、私は全く知らなかったのだが格闘ゲームの世界では「神」と言われた存在らしい。このマイナー世界の王者二人の100時間にわたる対談を一冊にまとめたのが本書である。
 当初の企画は、いわゆる「学歴」や「学校で習う知識」が今の世の中で役に立つのかというテーマだったようだが、対談はどんどん発展して「人生論」から「格闘ゲーム」の世界が今、金銭的な意味ですごい事になっている様子までに及ぶ。
 第1章と第2章では「学歴」や学校で習う知識の有用性を二人が論じているのだが、終始一貫して学歴に懐疑的なちきりん氏に対して、梅原氏は学歴がないことの悲惨さを訴える。両者とも、自分の半径数メートルの経験を元に語っており、いわゆるエビデンスという点では難があるのかもしれないが、双方の意見に生身の人間を知っている迫力があり、両者一歩も譲らない。
 さらに結果かプロセスかという議題に移ると、ビジネス界を生き抜いてきた、ちきりん氏が「なにより結果」と主張するのに対して、梅原氏は格闘ゲームの世界を引き合いにして、結果だけ出す=どんなつまらない手段も使っても勝つ事の危険性を説く。その危険性の1つは、そういうプレースタイルが定着すると格闘ゲームの世界そのものの人気が無くなり、結局誰も食べられなくなる事だ。これは私にもすぐ理解できた。もしも、プロ野球の全球団が高校野球のような戦い方(例えば1塁にランナーが出たら必ずバント)をしたら、プロ野球そのものが凋落するだろう。驚いたのは、つまらない手段で勝つ者は、やがて勝てなくなるという指摘だ。その理由は本書で確認いただきたい。
 しかし、格闘ゲームとはかくも奥深い世界だったのか。ゲームに対する自分の偏見をぬぐえただけでも買った価値、読んだ価値があった。

沖縄問題を除けば参考になる、沖縄独立派の著作  『使える地政学』朝日新書 佐藤優

 地政学とは地理的な環境が政治的、軍事的、経済的な側面で国家や民族に与える影響を、イデオロギーを排して冷静に分析しようとする学問である。

 本書は、地政学に基づいて2016年現在の国際情勢を読み解いた書物だ。

 日本では、イデオロギーで世の中を捉えようとする前世紀の遺物がまだまだ幅を利かせているが、ソ連崩壊後は地政学で世界を捉えるのが潮流のようである。そして、皮肉なことに世界のリーダーの中で最も地政学に通じているのは、かつて世界にイデオロギーを振り撒いたロシアのプーチンだ。

 さすがに鈴木宗雄氏の懐刀といわれた元外交官だけあって、佐藤氏は複雑怪奇な国際情勢を分かりやすく説明してくれる。IS(イスラム・ステイト)の登場によりイスラム教にシーア派スンニ派があることを思い出した人は多いと思うが、何ゆえイランにシーア派が多いのかを説明できる人はそうはいない。このような疑問が本書を読めば氷解する。
 また、これは本書に限らないが、書物である前提知識を入れておくと、TVメディアがいかに薄っぺらい知識を断定的かつ「知ったふうに」で撒き散らしているかが良く判る。例えば「タックスヘイブン」の起源は、①ローマ教皇領、②ハンザ同盟、③イギリスの船舶・船員供給組織(シンク・ポーツ)など諸説あるが、某局では③をあたかも当然のごとく解説していた。


 筆者自身も語るように地政学はとてもドライな学問だ。それゆえ、本書を通じて戦争や内戦、核開発といった恐ろしい話題を筆者は淡々と語っていく。ところが、唯一佐藤氏がそのドライさを失って、主観的というかウェットになっているのが沖縄問題である。
 佐藤氏はどうやら沖縄問題について、翁長氏のスタンスを支持しているらしく、安倍政権のように翁長氏の要求を受け入れないスタンスでは日本という国民国家の中に、琉球という別の国民国家ができかねないと主張する。そして、沖縄がいかに他の日本と文化的諸相を異にするかを本書の中で詳しく説いている。

 さらに、最終章では「中国に第2のIS(イスラム・ステイト)ができれば中国の海洋進出は止まる。それは荒唐無稽な予測ではない」と説く。

 これを合わせ読むと、①沖縄県が将来「琉球国」になる可能性はある、②中国に第2のISができなかった時は中国の海洋進出は止まらない、となり、
 行き着く先は、沖縄県の(その琉球国なるものは)中国の属国化か、あるいはチベットウイグルのごとき自治州ではないのか。

 にも拘らず、佐藤氏は沖縄問題について安倍政権を非難するばかりで、将来の危険性を語らない。
 他の分野で恐ろしいほど冷静な彼が、いったいどうしたことだろう?
 考えられる答えは2つしかない。

1 故郷、沖縄問題ではさすがの佐藤氏も冷静な将来分析ができない。
2 実は、中国と通じており親中琉球国の誕生を望んでいる。

 2は陰謀論の類になってしまうが、日本一の売国官庁=外務省出身者だけに否定しきれない。

 ただ、沖縄問題を省いて読む分には、非常に参考になることは間違いない。 

認知行動療法の成果を健常者の日常に生かす   『「おめでたい人」の思考は現実化する』(小学館新書) 和田秀樹

 現代では「おめでたい人」というのは、おバカさんのニュアンスを含んだ貶し言葉である。しかし、「おめでたい」は元々寿ぐ言葉なのだから、「おめでたい人」もそうあるべきではないか?本書はそう訴える。
 その上で和田氏は「おめでたい人」にも二種類あって「いいタイプのおめでない人」と「悪いタイプのおめでたい人」がいるという。両者は次のような人達だ。

(いいタイプのおめでたい人)
・周囲の批判を気にしない。
・まずは行動してみる。
・うまく行かなければ、次に行く身軽さ
・正解などない、と思う知的謙虚さ

(悪いタイプのおめでたい人)
・自分が正しいと信じて疑わない
・世間で言われていることをうのみにしてしまう
・いったん信じると、ほかの人の声に耳を貸さない
・だまされていることに気づかない

 なるほど、どちらも「おめでたい人」かもしれないが、相当に異なるタイプだ。精神科医である和田氏は、両者のおめでたさの根本的な違いは「認知」の仕方の癖にあると考える。だから「認知」の仕方を変えれば世の中の見え方が変わり、それが自分の行動を積極的なものに変え、さらには運やツキも引き寄せられる、という訳だ。
 本書では、具体的に「おめでたい人」になるためのトレーニング法も紹介されている。どれも納得できるものだが、笑えたのは「高田順次ならどうか考えるか」を想定するというメソッドだった。これは、自分も使ってみたい。

 ところで、和田氏はメディアに登場した頃は、どちらかというと保守系の方と認識していたのだが、近年ではすっかり左に行ってしまったようだ。政治スタンスでこの本の値打ちは変わらないと思うが、「認知のあり方を変えよう」という本で、政治の話を引き合いに出しすぎると読者に無駄なストレスを与えるのではと、他人事ながら心配になった。